浦上天主堂
うらかみてんしゅどう □長崎県長崎市
原爆の傷跡が、平和の尊さを語る。
長崎への原爆投下が語られる時、その悲劇の現場のひとつとして必ずといっていいほど取り上げられる浦上天主堂。ある意味、広島の原爆ドームのような、長崎における反戦の象徴として語り継がれている教会です。現在の浦上天主堂は戦後に再建されたもの。訪ねてみても、とても美しい赤煉瓦の教会です。しかし敷地内外に残る数多くの原爆による傷跡を見るにつれ、あらためてこの人類史上許されない長崎の悲劇について考える機会となりました。
美しいフォルムで、丘の上に建つ。
浦上天主堂は、現在ではカトリック浦上教会と呼ばれます。1959年に再建され、1980年に昔のような赤煉瓦の外観に改修されました。今、丘の上に建つ教会はただただ平和に日々を紡いでいます。訪ねた日のおおらかな五月晴れの下、美しいフォルムで空に映えています。丘の麓の入口から、すでに厳粛な雰囲気に満ちています。坂を登ればそこには双塔の教会が聳え立ちますが、観光客の自分など場違いな存在なのだと思わせるほど、いよいよその厳かな雰囲気は密度を増してきました。教会の中からはミサの声が聞こえてきましたが、私には中に入ることが出来ませんでした。
聖ヨハネ像と、悲しみのマリア像が語るもの。
教会の外観の正面左右には、一対の石像が立っています。これは見たことがあります。教科書などで学んだ、聖ヨハネ像と悲しみのマリア像、原爆の爆風と熱線を耐え残った浦上天主堂のシンボルのひとつです。悲劇から80年近く、痛みを抱えたまま今の時代に平和の尊さを伝え続けています。同じように敷地内のいたるところに生々しい原爆の語り部が残されています。顔のない石像、熱で変色した像、吹き飛ばされた旧建物の遺構。さらに近くの原子爆弾落下中心地には、当時の浦上天主堂の遺構が保存されています。どれもごく最近に起こったことのように、1945年8月9日に止まった時計を持ち続けています。ここで起こったことは、歴史の本で活字になっただけのことではないのです。今見ているものは間違いなく、現代まで続いている歴史の現場なのです。
原型を留めないまでに、破壊されたあの日。
浦上天主堂が初めて建設されたのは1914年。それまで長く続いてきたキリスト教弾圧が一応の収まりを見せた1895年から工事が始まり、約20年後の完成でした。ようやく自由な信仰、その神聖な教会ができ、信者たちにとっての心の拠り所として愛されました。しかしその30年後、アメリカによる原爆投下でその大切な日々は一瞬にして奪われてしまうのです。爆心地から500mほどしか離れていなかった浦上天主堂は壊滅的なダメージを受け、ほぼ原型を留めないまでに破壊されたといいます。数日後の行事の準備でたくさんの信者が集まっていましたが、誰一人生き残ることが出来なかったそうです。
今も鳴り響く、アンジェラスの鐘。
焼け野原にかろうじて残る教会の建物の写真は、誰もが見たことがあると思います。あの地獄のような光景がまさに今いるこの場所に広がっていたことを思うと、今のこの平和で厳粛な雰囲気とのギャップに胸が苦しくなります。同時にこの悲劇の中から必死に復興してきた長崎の人々の努力と忍耐力に、敬服の念を覚えずにはいられませんでした。
かつて双塔それぞれに設置されていた、2つのアンジェラスの鐘。原爆を耐え抜いて残ったひとつが、今もこの街に鳴り響いています。
photo.
アクセスマップ
詳細情報
名称 | 浦上天主堂 |
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所在地 | 長崎県長崎市本尾町1-79 |
問い合わせ先 | 095-844-1777 | 浦上天主堂 |
休業日 | 年中無休 |
料金 | - |
駐車場 | - |
公式サイト | http://www1.odn.ne.jp/uracathe/ |
wikipedia | https://ja.wikipedia.org/wiki/カトリック浦上教会 |
食べログ | - |
トリップアドバイザー | https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298568-d325076-Reviews-Urakami_Cathedral-Nagasaki_Nagasaki_Prefecture_Kyushu.html |
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